「サンプル」ってのは、いわゆる「前例」ってことね。
- 冨田勲氏と、Apple IIのコピー機を改造した自作PCを前にして。アップル(りんご)に対して「瓜二つ(URI II)」と命名(1980年)。
- だから私の鍵盤楽器はいろいろな人の意見を取り入れて作られている。しかし、どんな楽器が欲しいかは、絶対に尋ねないことにしている。なぜなら、ユーザーの意見はもちろん大切であるが、改良案以上の新しい楽器の提案には、全く返事ができないからである。
- 日本の音楽文化として海外に出したのは、テクノ・ポップくらいしかない。
- しかし、楽器として成り立つためにはその二つだけではどうしようもなくて、実はアートの感覚、人間の感覚がそこに入ってこなければ楽器にならないことがわかってきた。それを私は「アートウェア」と呼んでいる。「ハードウェア」「ソフトウェア」「アートウェア」の三つが揃って初めて電子楽器になる、というのが私の持論だ。
- 他の業界を見ても、ベンチャーというのは、すばらしいアイデアや、新しいテクノロジーだけでは成功しないことがわかる。文化に何か貢献する要素を持った物を作るところが残ってきた。
- 今振り返ってみると、私はファッション以外のものすべてに興味を持ち、影響を受けた。
- 楽譜通りの音程を再現しやすい鍵盤楽器あるいはフレットを備えたギターが、楽器市場の大きな部分を占めているのは、それなりの理由がある。
- 価格も適当であったこともあって、明治二十一年には山葉寅楠翁が興した山葉風琴製造所から売り出されたオルガンは、日本中に広がっていった。
- BEGGESTよりBESTになろう
- したがって、新しい分野をスタートするためには、アメリカでも日本でもマーケット・リサーチはまったく役に立たなかった。作った商品が日本ではあまり売れなくて、海外では売れるというパターンが十年以上も続くことになる。こういった傾向は現在でも同じであって、新しい分野をスタートする時に、マーケット・リサーチ会社に頼んでレポートを作ってもらっても、ほとんどの場合「マーケット需要なし」という答えが出てくることは間違いない。
- 展示されていたテルミンは参考出品ではなく商品であった。その時のデモンストレーターは、モーグ博士であったと記憶している。
- どの分野でも、新しいことにはアマチュア・グループが先陣を切って挑戦することが多い。
- 限られたメモリーにプログラムを押し込むには1バイトも無駄にできないので、途中経過をチェックするのはトイレット・ペーパーにデータをプリントアウトし、再三検証を尽くしたデータが完成してからパンチテープを作っていた。
- テクノ・ミュージックで旋風を巻き起こした"イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)"の心臓部が、このMC-8であった。
- この暗号はどちらも1秒ほどのデジタル・ノイズで、日本ビクターからリリースされたアルバム「バミューダ・トライアングル」に音楽の一部として挿入されている。
- 一九八三年のNAMMショウでは、シーケンシャル・サーキット社のプロフィット600と当社のJUPITER-6の二台のシンセサイザーをつないで歴史的なデジタル交信の公開実験を成功させることができた。
- MIDIの発想のもとになったのは、十六歳のときに勉強したエスペラント語だ。
- 富田さんはシンセサイザー音楽でも第一人者でいらっしゃるが、ご自身の作品は、アコースティック、エレクトロニクスという分け方ではなく、すべてを"楽器"としてとらえていらっしゃる。
- 一九七五年七月にレコーディングされたLPのジャケットには配線図まで印刷されていた。レコーディング・エンジニアはロバート・モーグと書いてある。->テルミン
- 私が輸入する前は、当時日本でメンソレータムを製造販売していた近江兄弟社さんが、キリスト教の信仰に基づいた社業のひとつとしてハモンド・オルガンの輸入元になっておられました。
- 冨田 初音ミクを「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」のカムパネルラで登場させようと思ったのです。
- 冨田 そう、本番で、ミクが、歌詞を間違えたんですよ。ミクが歌詞を間違えるなんて、ミク始まって以来です。でもね、美空ひばりさんだって歌詞を間違えることがあったんですよ。ミクが間違ってもおかしくない。でも、実はミスタッチだったんですけどね。