GUST NOTCH? DIARY

80年代映画館物語 / 斉藤守彦 (asin:4800305292)

図版は見ていて楽しいが、当時も今も映画業界の常識は世間の非常識、という感じがしてたまらない。

  • こういう場合の対応として「クレームのお客さんを、まず”ちょっとあちらに行って、詳しくお話を聞きましょうか?”と言って、他のお客さんから遠ざける。これがコツ。一人が大声で苦情を言うと、他のお客さんも”オレも!””私も不満!!”と、群集心理でテンションが上がってきちゃうんですよ。だからゴネたお客さんは現場から離して、落ち着いてもらってからお話を聞くんです」とは18年間東宝系映画館に勤務した守屋俊男が長い経験から導き出したセオリー。
  • 当時のテアトル社内での、閉館に対する感銘のなさは、吉井のこのコメントが証明している。「とにかくバカみたいに光熱費のかかる映画館でした。それ以外の経費の額も膨大で、スタッフもかなりの人数を抱えていました。
  • 東宝の「ドラえもん」シリーズがスタートしたのが80年の3月のこと。第1作「のび太の恐竜」はリバイバルの「モスラ対ゴジラ」との2本立てという、従来東宝が正月や春休みに公開していた「東宝チャンピオンまつり」的色合いが農耕であったが、この場合年少の観客のお目当ては明らかに「ドラえもん」であり、
  • 映連が定めるシネコン定義とは「5スクリーン以上」であることから現在のシネコンには該当しないが、
  • 当時「文部省特薦」の肩書きは、まさに水戸黄門の印籠。
  • ですので、日本劇場3館を設計する際、東宝からは”とにかく客席をたくさん並べてくれ”と要望され、強引に詰め込んだわけです。その話を聞いた松竹も”東宝がそうするならば”と、無理して丸の内ピカデリー1・2に2階席を作ったんです。
  • 僕から見れば、あの糸井重里さんが書いた”忘れ物を、届けに来ました”というコピーも良くないと思いました。あれはコピーであって惹句ではないと思います。
  • 徳山の考える映画宣伝とは、作品内容を世間に知らしめることはもちろん、小指の先ほどの事実でもそれを拡大解釈して見せる。いわば宣伝サイドの以降を前面に出し、それがハッタリ宣伝と捉えられることを良しとする。そんな姿勢に基づいていた。
  • 「ある時東洋水産という会社に出資の打診に行ったんだ。それで”あなたの会社はなにをやってる会社ですか?”と聞いたら”うちはマルちゃんをやっています。ラーメンを作っています”と言う。これはダメだな……と思って席を立つと、”待って下さい!金なら出します”と、社長が言うんだよ」
    まさしくバブル全盛時代の、金余りニッポンを象徴するようなエピソードだが、「敦煌」の制作費45億円は無事集まった。
  • 山小屋価格=一部の映画館、シネコンにおいて現在でも行われている悪質な商習慣。