GUST NOTCH? DIARY

紙の新聞と私

実家に帰ってきて一週間ほど経つが、この間、新聞を一度も見ていないということに気がついた。
普段自宅でも新聞は取っていない。新聞を取るのを辞めてから既に15年くらいになるが、これまでにこれといって困ったことはない。ニュースは Web とテレビで間に合ってる。テレビ番組表はレコーダーの番組表とiPodのアプリで間に合ってる。実家に帰ってきてもそれは同じで、iPodiPad に変わるだけ。そもそも、この時期は特番だらけで、これと言って見たい番組も少ないし、家人がチャンネル権を握っている。
新聞のデレビ番組表についていえば、紙新聞のテレビ欄だとBSが真ん中あたりのページになっていて欄が小さかったりと、一覧性も劣るし情報量も劣る。家人の行動を見ていても、番組表は新聞ではなく、テレビ本体の地デジ番組表を見ているようだ。
紙の新聞離れは、若い世代からかと思っていたが、親の話では、近所で新聞を取っているのは数軒だけらしい。田舎で高齢者の方が昔ながらのメディアに固執するのかと思っていたが、高齢化の進んでいる田舎の方が新聞離れは進んでいるようだ。一日中家にいてテレビを見れるなら、確かに新聞はいらないかも。全国紙には地元の情報はほとんど載らないわけで、それならテレビで得られる情報と大差はない。年金生活の中から月3000円を出すなら、他のことに使う。
さて、おそらく半年ぶりくらいに新聞を眺めてみた。一面、三面、社会面、スポーツ欄の情報で、気になるものは既にテレビやWebで知っていたもの。他は新年の特集記事と生活・暮らしの欄。報道以外でしか差別化できないんですね、今の新聞って。後は昔ながらの系列のカラー。
やっぱり、かさばるだけだし、紙の新聞はいらないな。一時期、産経の新聞アプリも入れてたけど、結局使わないので削除したし。情報源としての価値が低い。
新聞は、後から昔の記事を探すための記録として、存在意義があるかな。今有料で配信している記事とその検索が、国立国会図書館でもアーカイブ・検索できるようになれば、その位置づけも微妙になるかも。