GUST NOTCH? DIARY

拡散するサブカルチャー―個室化する欲望と癒しの進行形 (青弓社ライブラリー) / 谷川建司, 呉咏梅, 王向華 (asin:4787232983)

読んでて、なんか話の展開に違和感があるなぁ、と思っていたのですが、もう一回読んでみて原因がわかりました。
このような部分があります。

プレイヤーたちにとっての「ゼビウス」は、それ自身の自律的な(ともとれる)虚構世界を内蔵した一篇の「虚構作品」であるのと全く同程度に、ただのゲーム、ただのコンピュータ・プログラムでしかなく、プレイヤーたちもそうと知りながらこのゲームとの関係を切り結んでいたということである。

この部分を読んで、何をいまさら当たり前のことを改めて、と感じてしまったわけです。
どうやら、この著者の方は、「フィクション」と「ゲーム」は排他的なものであるという前提があるようなのです。でも、「フィクション」の定義は明示されていないので(おそらくは"完成された")「虚構世界」としか解釈するしかありません。
著者の論旨は、

  • ゼビウス」はゲームに「フィクション性」(あるいは「世界観」)を持ち込んだ最初のゲームである。
  • しかし、その中に「スペシャルフラッグ」や「バグ」という、「フィクションとしての世界観」を壊す要素が存在している。
  • にもかかわらず、プレイヤーは「フィクション」を壊す要素と共存し、ゲームの世界に身を委ねている。

という感じです。(かなり大雑把な要約ですが)
で、この後、

  • ゼビウス』というゲームの中に、相反するこれら二つの特質が具現化されているという事実はいったい何を意味するのか?

ということについて、大塚英志の論文を引用しながら、時代における「物語消費」の潮流の一形態であったと結論づけています。
大塚英志の論文の内容も見ていないし、その他の参考文献をあたっているわけでもないので、あくまでも個人的な率直な感想を言えば、先に述べたような「『フィクション』と『ゲーム』は排他的なもの」または「フィクションを構築するもの/それを破壊するものという単純な二項関係」という前提は、果たして存在していたのかというのが疑問です。「ゼビウス」のプレーヤーが行ったことは、既に「スタートレック」におけるトレッキーや、さらにさかのぼれば「シャーロック・ホームズ」におけるシャーロキアンが行っていたことだと思うのです。それとも、SFやミステリは、いつの時代だろうと文化の本流にはなりえない、ということも示しているのでしょうか。
むしろ、「ゼビウス」の時代には、本文でも触れられたように「ガンダム」「ビックリマンチョコ」など、複数の事象が同時多発的かつ全国的に発生したということの時代背景について考察したほうが興味深いのではないかと思います。このことをアングラカルチャーという視点で論じたものが「『80年代地下文化論』講義」([asin:4861914396])であり、マイノリティという視点からみたものが「『ノイズ文化論』講義」([asin:4861912849])ではないのでしょうか?
ビデオゲームを題材にした時、その中心に「ゼビウス」がくるのは必然として、もっと深く掘り下げて欲しかったなぁと思いました。単純に「オタク文化」としてひとくくりにされてしまうのではなく、マンガ、アニメとは異なる、ゲーム文化とメディアの関係の歴史みたいなものを。